「花園神社」 その3 二宮尊徳編

Posted by on 2017年10月23日

新宿総鎮守「花園神社」の境内摂社【芸能浅間神社】の敷地内に『二宮金次郎』の石像が立っています。

戦前から戦後にかけての長い時期、日本中の小学校の校庭に置かれていた『二宮金次郎像』! 年配の方々には懐かしい姿ですね。

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二宮金次郎は、江戸時代・天明7年(1787)に、現在の小田原市栢山で生まれました。生家は裕福な農家でした。

ところが、金次郎が5歳の時、南関東を襲った台風のために地元を流れる「酒匂川」の堤防が決壊し、濁流に田畑と屋敷を失ってしまいました。それ以降、一家は貧しい暮らしを余儀なくされました。

そんな中、12歳の金次郎は、眼病を患った父に代わって、酒匂川の堤防工事に駆り出されましたが、子供だったので十分な働きができず、負い目を感じて過ごしました。

彼はそんな働きの悪さを穴埋めするため、夜遅くまで草鞋を編んで、工事に携わる人達に配りました。

その当時、金次郎は朝早く起きて山に薪を拾いに行き、夜は草鞋を作るというキツイ暮らしを続けましたが、毎日の厳しい暮らしの中でも勉学の志を高く持ち続けました。薪拾いの山からの帰り道に、歩きながら本を読んで勉強した姿が、全国の校庭に置かれた像です。

成人となった金次郎は、苦労して学んだ知識を生かして、小田原藩領内の土木事業、農地開墾、農業振興など様々な分野で手腕を発揮し、藩で重く用いられる指導的な地位を得ました。

その後、小田原藩・大久保家の分家である宇津木家が、旗本所領として治めていた、現在の栃木県に当たる下野国芳賀郡の荒廃地を立て直せ!という藩命を受けてその地に赴きました。依頼された地域を立派な収穫地に立て直し、名声を高くしました。

その業績を聞きつけた周辺の領主からも、様々な立て直し事業の依頼を受けましたが、金次郎はそれらの依頼のほとんどを見事に成し遂げた、北関東の広い地域で人々の尊敬を得ました。

下野国で多くの業績を成し遂げた後、金次郎は小田原に帰りましたが、天保13年(1842)徳川幕府に召し抱えられ、再び下野国など北関東地域の天領(幕府領)の運営に当たりました。

幕末の安政3年(1856)に、病を得て下野国の今市村「報徳役所」で没しました。没後「尊徳」の号が贈られ、今では『二宮尊徳』と呼ばれるのが一般的です。

大政奉還後、明治政府から「従四位」が追贈され、時代が変わっても人々から慕われてことがわかります。下野国での活躍が大きかったので、二宮尊徳は栃木県の人、と思う人も多いのですが、出身地は小田原です。

小田原城の裾地には威容を誇る一方、親しみを覚える『報徳二宮神社』が在ります。境内を散策するだけでも心が潤う佇まいなので、機会がありましたら、新宿の「花園神社:二宮金次郎像」を思い浮かべながら、参拝して如何でしょうか。

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追加話しですが、「花園神社の二宮金次郎像」は、以前、神社の北側に接して在った「四谷第五小学校」の花壇の中に置かれていたものです。小学校が生徒の減少で別の地に移転して、もうひとつの小学校と合併する際に「花園神社」移転され今日に至っています。

 

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